民謡関連

三味線の歴史

今は日本の伝統楽器と言われる三味線。

そのルーツを辿っていくと紀元前の中国にまで遡る。
まず紀元前の中国、秦の時代に存在した「弦鞀(シェンタオ)」という弦楽器が時代と共に変化して行き、13~14世紀頃の明の時代には「三弦(サンシエン)」と呼ばれる楽器になった。

三弦はその名の通り弦が3本あり、胴体部分は蛇皮が貼られていた。

14世紀末頃にこの三弦が交易によって琉球王国に伝わり、形はほぼそのままに独自に発展していったものが今でもよく知られている「三線」である。

三味線は室町時代に琉球から伝来した三線(蛇皮線)を改造して創られた。

その百年後、琉球に音楽の天才、「赤犬子」が楽器の改良と多くの名曲を創り、琉球三弦の元を確立した。

そして永禄5年(1562)前後、貿易船によって大阪・堺、九州・博多の二つの貿易港に入った。九州では沙弥仙、須弥山(それぞれしゃみせんと呼んだ)が盲僧によって演奏されたという。
一方、堺では手に入りにくい蛇皮の代りに犬や猫の皮を張り、三十年の研究期間を経て、安土時代の初めには現在の三味線の基礎を確立した。

今日に残る最古の三味線は銘が「淀」と呼ばれ慶長二年豊臣秀吉の命によって京都の神田治光が作った。

江戸時代には名匠、石村近江の名作もあり、三味線は日本の弦楽器において最高の位置をしめるようになった。

その後、260年続く江戸時代という平和な世の中を背景に三味線は一気に広まっていく。初めは都市部の上流階級が嗜むものだったが、やがては庶民階級、そして地方までにも広がり、独自の発展と遂げていった。

当時は三味線を弾けるものは異性から人気が出ると言われ、習い事として非常に人気があったとされている。特に女性は三味線などの芸事に秀でると上流階級の家に嫁げる可能性すらあった。
また、三味線は盲人が生活のために演奏することも多くあり、特に盲官として出世するには三味線の技能は非常に重要だった。

瞽女(ごぜ)は、日本の女性の盲人芸能者を意味する歴史的名称であり、

津軽三味線のルーツは、新潟地方に居た瞽女の三味線が元ではないかと言われている。

津軽でも瞽女は芸をして回り、全盲の男性(ボサマ・坊さま)は、この瞽女から三味線を習ったと言い伝えられている。

ボサマは門付けをして回り、お金やお米などを貰って暮らしていたが、各家を回り門の前で三味線を弾き、唄うボサマを蔑む者も多く、歴史的文献などにもその詳細は記されていない。

津軽三味線の第一人者、高橋竹山もコンサートの中で、そのボサマ時代を「米を投げつけられたこともあり、つらかった」と話している。

私の人生を変えた一枚のレコード 高橋竹山プロフィール